「場所と、いま分かっていることは、私から説明しましょう」
マルタは俺の肩へ手を置いた。
「ここは、アルディア王国西部の灰門城です。この城と周辺の領地は、第三王子であるレオンに与えられました」
「領主は指揮官ですか」
「正式には。国王陛下の勅書によって、レオンが領主に任じられています。けれど、まだ八歳です。成人するまでは、母親である私が法定後見人として政務を預かります」
エレナは、わずかにうなずいた。
「お二人が、この城へ到着したのは?」
「六日前です。三日前、城の引き渡しを受けている最中に、レオンが突然倒れました」
「倒れる直前、何をしていましたか」
「灰門の領主印へ、レオンの魔力を登録していました」
その言葉を聞いた瞬間、途切れていた記憶の最後に、ひとつの光景が戻ってきた。
冷たい石壁に囲まれた部屋。
黒い布の上へ置かれた、銀色の印章。
印面には、翼を広げた鷹と、灰門城の三つの塔が刻まれていた。
俺はマルタに促され、その印章へ右手を触れた。
冷たかった。
次の瞬間、印章からあふれた青白い光が、視界を埋め尽くした。
覚えているのは、そこまでだ。
「印が強く光った直後、レオンはその場へ倒れました」
「領主印への魔力登録で、意識を失うことはあるのですか」
「通常はありません」
マルタの表情が曇った。
「立ち会った刻印官も、これまで見たことがないと申していました。領主印を調べさせましたが、破損も、呪詛を仕込まれた痕跡も見つからなかったそうです」
「領主印は現在どこに?」
「引き渡しの間に使う宝物庫へ戻し、私の印で封じてあります。レオンが目覚めるまで、誰にも触れさせていません」
「適切な処置だと思います」
エレナはそう答えたあと、わずかに視線を下げた。
「ただし、私はこの世界の魔法について、与えられた知識を持っていません。領主印と魔力登録については、その刻印官から詳しく話を聞く必要があります」
そのとき、また青白い文字が浮かんだ。
【初回起動記録を開示します】
【起動条件:領主権を伴う魔力登録――達成】
【前世記憶の統合――完了】
【肉体および魔力経路の適合――完了】
【適合処理時間:72時間】
【同一処理の再発予定:なし】
「お母様。僕が倒れた理由が書いてある」
「何と書かれているの?」
「領主印に魔力を登録したことで、APシステムの起動条件を満たしたみたい。それから、前の人生の記憶を僕に戻して、この身体と魔力になじませるのに三日かかったって」
「では、領主印に異常があったわけではないのですか」
「うん。領主印そのものが原因じゃない。僕が正式に領主になったことが、きっかけだったみたい」
マルタは俺の顔を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「その力は、あなたが領主になるのを待っていた、ということですか」
「たぶん」
「なぜ、領主でなければならないの?」
もう一度、青白い文字を確かめる。
けれど、起動条件以外の説明はなかった。
「分からない。そこまでは書かれてない」
マルタの表情から、母親の安堵が少しだけ消えた。
代わりに、国王の側妃として王宮を生きてきた警戒心が浮かぶ。
「人と物と武器を生み出せる力が、領主権を得たあなたの前にだけ現れた。それを、偶然で済ませてはなりません」
「うん」
「同じことは、もう起きないのですね?」
「そう書いてある」
「あなたの言葉は信じます」
マルタの手が、俺の頬へ触れた。
「ですが、その文字を信じたわけではありません。何の説明もなく、あなたを三日間も眠らせた力です。侍医の診察も受けてもらいます」
「分かった」
「私も賛成です」
エレナが口を開いた。
「システムの記録は、原因を考えるための有力な情報です。しかし、それだけで身体への影響や、魔法的な異常がないとは断定できません」
生み出したシステムを、エレナが無条件に信じているわけではない。
そのことに、俺は少し驚いた。
「領主印と魔力登録については、刻印官へ確認します。指揮官の身体については、侍医の診察結果と照合すべきです」
「うん。そうしよう」
俺は青白い画面へ目を戻した。
高城拓真の記憶は、八年間ずっと俺の中で眠っていた。
それでも、APシステムは起動しなかった。
土地を与えられ、そこに暮らす人々を預かる立場になった瞬間に、初めて動き始めた。
この力は、俺一人を助けるために与えられたものではないのかもしれない。
そう考えると、保有している千APという数字が、急に重く見えた。
そのとき、扉が叩かれた。
「マルタ様。侍医がお待ちです。殿下の診察を始めてもよろしいでしょうか」
俺とマルタは、同時にエレナを見た。
エレナについて、どう説明するか。
「少し待ちなさい!」
マルタが扉の外へ声をかける。その後、衣装棚から濃紺の外套を取り出した。
「ひとまず、これを羽織りなさい」
「承知しました。」
エレナは外套を受け取り、肩へ掛けた。遠目には変わった装備を身につけた護衛に見えなくもない。
「エレナ。あなたは今日から、レオン付きの私設護衛です」
「身分を偽るのですか」
「役目を偽るわけではありません。あなたは実際に、レオンを守るのでしょう?」
「はい」
「ならば、私が身元を保証します。詳しい出自については、私の判断で伏せます」
マルタは王宮で生きてきた側妃の顔で言い切った。
「ただし、人前ではレオンを『指揮官』ではなく、『殿下』と呼びなさい」
「承知しました」
「部屋、食事、給金、城内での権限については、診察が終わってから決めます」
APシステムは、数秒で一人の人間を生み出した。
けれど、この城で人として暮らすためには、服も、部屋も、食事も、立場も必要になる。
それらは、画面のどこにも用意されていなかった。
エレナが外套の前を閉じ、俺と扉の間へ立った。
「準備できました!」
マルタが俺の髪と寝間着を整え、扉へ向き直る。
「お入りください」
扉が開いた。
白髪交じりの侍医と、薬箱を抱えた若い侍女が入ってくる。
二人は寝台へ近づき――見覚えのないエレナを認めて、同時に足を止めた。
「その方は……?」
「今日から、レオン付きの私設護衛を務めるエレナ・グレイです。身元は私が保証します」
侍医はエレナの外套と軍靴へ視線を走らせた。
いくつもの疑問が顔に浮かんでいる。
それでも、彼は質問を飲み込んだ。
「事情は診察のあとで伺いましょう。まずは、殿下を診せてください」
侍医が寝台の横へ腰を下ろした。
薬箱を抱えた侍女は、その後ろへ続く。
見覚えのある顔だった。
俺が目を覚ましたとき、「マルタ様」と叫びながら部屋を飛び出していった女性だ。
薬箱を卓上へ置こうとする手が、震えている。
「殿下……本当に、お目覚めになったのですね」
目には、薄く涙が浮かんでいた。
「三日間、僕を看てくれていたの?」
「はい。マルタ様ほどではありませんが、私も――」
「泣くのでしたら、先に薬箱を置きなさい。落としてしまいますよ」
侍医に注意され、侍女は慌てて薬箱を卓上へ置いた。
「ありがとう。心配をかけたね」
俺がそう言うと、侍女は口元を押さえ、何度もうなずいた。
この人も、レオンの記憶の中にいる。
熱を出した夜に冷たい布を替え、嫌いな薬を飲まない俺を追いかけ回した女性だ。
名前までは、まだ出てこない。
けれど、知らない人ではなかった。
「では、殿下。いくつか質問いたします」
侍医が俺の瞼を持ち上げ、左右の目を確かめた。
「ご自分のお名前は?」
「レオン・アルディア。八歳」
「ここがどこか、分かりますか」
「アルディア王国西部の灰門城。僕に与えられた領地の城」
「最後に覚えていることは?」
「灰門の領主印に、魔力を登録したこと。それだけ。」
「頭の痛みは?」
「今はない」
「吐き気、手足の痺れ、見え方の異常は?」
「青白い文字以外は、ないと思う」
答えてから、しまったと思った。
侍医が眉を上げる。
「青白い文字?」
「熱で眠っていたときの光が、まだ目に残っているようなのです」
マルタが、すぐに言葉を挟んだ。
「ふむ。そうですか。見え方の異常ありと。では、体の方を診ていきましょう」
脈を測り、額と首へ触れ、胸と背中の音を確かめる。
それから薬箱の底から、薄い六角形の板を取り出した。
透明な板の内側に、銀色の細い線が幾重にも刻まれている。中央には、爪ほどの青い石が埋め込まれていた。
「それは?」
「診脈板です。魔力の流れと、呪詛の痕跡を調べます。痛みはありません」
侍医は診脈板を俺の胸元へかざした。
中央の青い石が淡く光り、銀色の線へ流れ込んでいく。
板の内側に、木の枝のような光が浮かび上がった。胸から肩へ、肩から腕へ。さらに細い光が、全身へ広がっていく。

マルタが、息を詰める。
侍医は板の角度を変え、何度も光の流れを確かめた。
「呪詛の痕跡はありません。魔力毒にも反応していない」
「では、異常はないのですか」
「いいえ。三日前とは、魔力の流れが変わっています」
侍医の指が、診脈板に浮かぶ光をなぞった。
「倒れた直後は、年齢相応の流れでした。細く、ところどころに揺らぎがある。ですが今は……」
「何か、悪くなっているの?」
「逆です。あまりにも整いすぎています」
侍医が首を傾げた。
「魔力量そのものは、以前とほとんど変わりません。ただ、魔力の通り道が一度ほどかれ、正しく結び直されたように見えます。滞りがほとんどない」
魔力が増えたわけではない。
同じ荷物を、余計な寄り道をさせずに運べるようになった。
物流の仕事に置き換えるなら、そういうことなのだろうか。
「その変化が、三日間も目を覚まさなかったことと関係しているのでしょうか」
エレナが尋ねた。
「可能性はあります。しかし、このような変化は私も見たことがありません。断定はできません」
「通常の毒物については?」
「この板で調べられるのは、呪詛と魔力へ作用する毒です。普通の毒や薬物まで、すべて見つけられるわけではありません」
エレナは小さくうなずいた。
「承知しました。倒れる前の食事、飲み物、服用した薬については、別に確認する必要がありますね」
「そのとおりです」
侍医は、エレナを値踏みするように見た。
「護衛にしては、ずいぶんと用心深い」
「生きていていただかなければ、護衛の任務は果たせません」
「なるほど。道理ですな」
侍医は薬箱の蓋を閉じ、立ち上がった。
「本日は安静にしてください。食事を取っても異常がなく、今夜も熱が出なければ、明朝もう一度診察します」
「明日なら、魔法を使ってもいい?」
「診察で問題がなければ、ごく少量の魔力を流してみましょう」
「分かった」
「今度こそ、約束を守ってください」
侍医が念を押す。
どうやらレオンは以前にも、安静にしろという命令を破ったことがあるらしい。
その記憶までは戻ってこなかったが、マルタと侍女が同時にうなずいたので、否定はできなかった。
「レオンには、先生の指示どおりの食事を」
マルタが若い侍女へ命じる。
「それから、エレナの分も用意してください。隣の控え室を、今夜から使えるように整えておきなさい」
侍女は驚いたようにエレナを見たが、すぐに頭を下げた。
「かしこまりました」
侍医と侍女が部屋を出る。
扉が閉じると、エレナが俺の前へ進み出た。
「殿下。現在の任務をご指示ください」
そうだった。
エレナはまだ、生まれて最初の命令を待っている。
「僕とお母様を守ってほしい」
「承知しました」
「それから、灰門城と領地のことを、僕と一緒に調べてほしい。僕が知らないことや、間違っていることがあったら、隠さず教えて」
「護衛、現状把握、指揮への助言。三点を任務として受領します」
「銃は最後の手段にして。逃げたり、ほかの方法で守れたりするなら、そっちを選んで」
「承知しました」
エレナは背筋を伸ばした。
「命令を受領しました、殿下」
その直後だった。
エレナの腹から、小さな音が鳴った。
彼女が自分の腹部へ視線を落とす。
「これは……空腹、ですね」
「知らなかったの?」
「知識としては認識しています。しかし、経験するのは初めてです」
生まれてから、まだ一時間も経っていないのだ。
マルタの口元が、わずかに緩んだ。
「でしたら、任務を始める前に食事ですね」
しばらくして運ばれてきたスープを、エレナは慎重に口へ運んだ。
「どう?」
少し間を置いてから、エレナが答える。
「おいしいです」
そのまま、二口目をすくう。
最初の兵士へ補給したものは、銃弾ではなく、温かいスープだった。

