《転生およそ45日目》
村へ戻った翌朝、|白鹸《しろけん》の最初の一釜は、石鹸にならなかった。
釜の上には獣脂の膜。底には、黒ずんだ|灰汁《あく》が沈んでいる。塩を打っても、売り物になる乳色の種は浮いてこない。
試験販売の許可が失効するまで、残り四十二日。型で二日、棚で二十五日。白鹸は、仕込みから二十七日経たなければ検査へ出せない。
失敗に使える猶予は、十五日しかなかった。
◇
二日前、城下を出て人目のない林へ入ると、俺は手押し車ごと格納庫へ収めた。塩、蝋燭、帰路の糧食、村へ持ち帰る銀貨十二枚。目録には、俺が付けた〈村へ返す袋〉の札ごと、別の荷として並んだ。
【現地物資を収納しました】
【手押し車一台/仕入品・帰路糧食/銀貨十二枚〔手動札:村へ返す袋〕】
トメ婆には、帰路の間だけ俺が預かると出発前に断ってある。保管方法までは説明していない。
現地の荷も、重さごと消して運べる。だが、俺が村へ着かなければ誰も取り出せない。便利な倉庫と、皆が使える道は別物だ。
続けてハンヴィーとM4、弾倉、M9を出すと、前回の走行分が決済された。
【車両取り出しを確認。予約済みの自動補給を実行します】
【燃料九十リットル:-45AP】【現在残高:33,875AP】
一泊して、翌日の昼前に帰村した。ヤンは村も、七・六二ミリ弾三千五百八十八発も減らしていなかった。ミアの飴だけが二つに割れ、大きい方が本人の掌へ戻った。
格納庫から銀貨十二枚と売買の控えを出し、トメ婆へ渡す。村の売上を村へ戻しただけで、俺の自由現金と予備四枚には触れない。
そして仕事を始める前に、商売の勘定を置いた。
試し釜を含む初回生産分の手間賃として、六人の女衆へ銀貨を一枚ずつ。村が出す獣脂、灰、薪、蜜蝋の材料代に銀貨二枚。合わせて銀貨八枚を、俺の帳場から先に払う。
売れてから払うのではない。売れなくても、働いた手と使った材料の値は消えない。
「失敗しても返さないよ」
トメ婆が念を押した。
「返されたら、投資じゃなくなる。損をするのは俺だ」
支払いを終えると、手元は銅貨十五枚になった。
目録には、完成した石鹸も載っている。百五十個を買って検査へ出すだけなら、釜で失敗することもない。
だが、売れるたびにAPが減り、俺がいなくなった日から補充も止まる。村の仕事にもならず、組合へ見せる製造帳も作れない。買うべきなのは今日の答えではなく、同じ答えへ何度でも辿り着くための道具だ。
何が要るのかを、工程の順に一つずつ拾った。脂の重さ。釜の熱。灰汁の濃さ。人の目と手だけに置いてきた頃合いを、次の釜でも読める形へ移す。
【機械式卓上秤:-10AP】
【校正用分銅・五キロ:-5AP】
【耐薬品温度計・一本:-5AP】
【灰汁用比重計:-10AP】
【灰汁用透明測定筒:-5AP】
【目盛り付き耐薬品容器・二個:-10AP】
【強アルカリ域試験紙・百枚:-5AP】
釜へ入るのは女衆六人とトメ婆、それに俺。布は灰汁を吸えば、肌へ張り付いて傷を深くする。慣れだけに、そこで働く手と目を賭ける気はない。
【密閉型飛沫防護眼鏡・八個:-16AP】
【耐アルカリ長手袋・八双:-32AP】
【耐薬品前掛け・八枚:-32AP】
【ここまでの購入計:-130AP】
【現在残高:33,745AP】
秤や測定器、防護具は次の釜にも使える。試験紙だけは使うたびに一枚減るが、残りが数字で分かる。どれも、使う場所を決めてから目録へ加えた。
作業場には縄を張り、子供と家畜を入れない。灰汁を扱うのは大人だけ。長袖の上へ防護前掛けを着け、眼鏡と耐薬品手袋を使う。水桶を二つ置き、撥ねた時は手袋を外して、擦らずに流す。
灰汁用の桶、柄杓、二つの目盛り容器、測定筒、比重計、温度計一本には赤い縄を巻いた。食事にも、火酒の検査にも二度と回さない。塩析の下液は蓋付き桶へ集め、井戸、小川、畑から離した小屋で保管する。水で薄め、強さを確かめた分だけを、大人の道具洗いへ少量ずつ回す。
女衆は灰汁石鹸をとうに知っている。俺が足すのは、同じ物を次の釜でも作るための数字と、安全に失敗できる道具だ。
獣脂は一度湯で煮て、滓を掬い、布で濾した。冷えて固まった上澄みだけを集め、すべて混ぜて一つの材料にする。釜ごとに違う脂を使えば、灰汁を揃えても答えがずれる。
脂は秤で量り、毎回同じ温かさまで戻す。灰汁は灰汁用比重計と芋の浮き方を見比べ、目盛り容器で量った。温度と重さが揃ったところで、現地の桶と柄杓にも同じ量の刻みを移す。高価な器具を俺だけが抱えるのでなく、木の目盛りへ写して皆が使えるようにするためだ。
トメ婆が「当たり」と認めた灰汁へ芋を浮かべ、水際へ小刀で線を刻む。仕込みの灰汁へ移し、同じ線まで浮くよう煮詰めるか、水で割る。
ここまでは、帳面どおりだった。
脂一桶。灰汁は十杯を上限に、一杯ずつ加えて、そのたびに混ぜた。何杯目で脂がまとまり始めたかも書く。芋の線も、火の番も、塩の木匙も帳面にある。
それでも最初の釜は、脂と黒い水に分かれた。
帳面へ並べた印を、一つずつ潰していく。重さ、温度、比重、脂、塩。試験紙も、どちらの灰汁にも同じ強い色を出した。測った項目には、違いが見つからない。
「数字は揃ったかもしれないね」
トメ婆が灰桶の中から黒い粒を摘まみ、指先で潰した。灰汁を取った若い女は、帳面どおり同じ桶と芋を使っている。だが帳面には、竈のどこから灰を取るかがなかった。その時、トメ婆は脂を清める釜を見ていた。
「中身まで揃ったと、誰が言った?」
「炭か」
「炭だけじゃない。竈の底を掻いたろ。焼け残りも混じってる」
「芋は、同じ線まで浮いた」
「浮く重さが同じでも、脂を食う強さまで同じとは限らないさ」
道具は、訊いたことには正確に答えた。俺が訊かなかった灰の質までは、教えてくれない。
帳面には、灰の量がある。灰の質がない。
柄杓一杯ぶんの小鍋を二つ、火へ掛けた。同じ脂を入れ、片方には失敗した灰汁。もう片方には、トメ婆が以前の当たり釜から小壺へ取り分けていた灰汁を入れる。
芋の線は、どちらもほぼ同じだった。
だが杓子で混ぜると、基準の方だけが脂を抱き込み、薄い種になってまとまり始めた。失敗した方は、いつまでも油の輪を浮かべている。
「……俺の目盛りは、入口を一つ見ただけか」
「目盛りが悪いんじゃないよ。一本で全部量れると思ったのが悪い」
決まりを二つ足した。石鹸用の灰は、上の白いところだけ。灰汁は一晩置き、澄んだ上だけを汲む。
「次の釜へ混ぜて煮直せば、洗い物には使えるよ」
釜を混ぜていた女が言った。
「村の布と道具へは回す。だが、売り物には混ぜない。番号も打たない」
失敗した種は新しい灰汁で煮直し、安全を確かめてから洗い場へ回す。肌へ使う品にも、売り物にも数えない。
帳面には、追跡用の内番号として〈試験零番・不合格〉と書いた。商品へ押す木印は使わない。
「売らない物まで書くのかい」
「消えた脂と塩を書かなければ、次は同じ失敗をただで繰り返す」
番号は、押さなかった。
◇
《転生およそ46日目》
二釜目は、俺が灰汁を量り、トメ婆が火を止めた。
芋が教えるのは、煮る前の濃さまで。脂を入れた後は、婆さんが杓子から落ちる種を見る。
「まだ水だ。……そこ、火を弱めな」
女衆が薪を引き、別の者が同じ速さで混ぜ続ける。同じ杓子で一杯を掬い、釜の縁から、横に立てた無印の木片に沿って持ち上げ、同じ角度へ傾ける。種が太い筋を引き、トメ婆の指二本ぶん伸びたところで、ぷつりと切れた。
「今だ。火を落としな」
「その指は、誰の指でも同じ長さじゃない」
「今日はあたしの指だよ。明日から、誰の目でも同じに見える言葉へ直しな」
俺は、その切れた位置へ二本の刻みを入れ、種の太さと切れる形を書き足した。婆さんの五十年を、奪うつもりはない。本人がいない日にも渡せる形へ写す。
塩を少しずつ打つと、乳色の種がゆっくり浮いた。上だけを二つ目の鉄釜へ掬い、湯で煮戻し、もう一度塩を打つ。二度目に浮いた種だけを掬い、灰汁と塩を含む下液は蓋付きの廃液桶へ分けた。最後に、量った蜜蝋を少しだけ溶かす。
今度は分かれなかった。
大工の端材で作った木枠へ流す。売り物三十個ぶんと、検査用の端切れひとつ。二日後に枠から外して切り、同じ番号の印を押す。
「二番、でいいのかい?」
木印を持った女が訊いた。
「一番だ。客の前へ出せると決めた、最初の釜だからな」
試し釜は、失敗を隠さないため帳面に残す。商品番号は、売れる品だけを追うために使う。
その晩、帰還と商品一番釜を、麦粥と干し肉でささやかに祝った。
ガルムがひと月で空にした古い瓶へ、買い置きの蒸留酒を一本ぶん移して返す。空いた購入瓶は洗い、火酒用へ回した。それから、MREに付いていた赤い薬味の小瓶を渡す。
「舐めるなら、一滴だ」
三秒後、老傭兵は盛大に咳き込んだ。それでも二滴目は肉へ落とし、小瓶を酒より丁寧に腰袋へ仕舞った。
「旦那。これも儂の給金に含めろ」
「使い切ったら終わりだ」
「なら、一滴の値打ちを上げねばならんな」
翌日からも、一日に一釜だけを炊いた。五釜を同時には回さない。灰汁は蓋付きの桶で一晩澄ませ、仕込みごとに試験紙を一枚使って色を記録する。一つ目の鉄釜で脂と煮て最初の塩を打ち、浮いた種を二つ目へ移して、湯で煮戻して二度目の塩を打つ。枠を外す仕事と次の仕込みは重ねても、火を見る仕事は重ねない。
切り分ければ、白鹸は一釜三十個。五釜で百五十個になる。端切れにも同じ番号を押し、売り物とは別の籠へ入れる。
検めるのは、硬さ、脂の臭い、油の浮き、布の汚れ落ち。人の肌を試験紙にはしない。最後は組合が選んだ品を抜き取り、組合の職人が通す。
固まった物から順に切り分け、一個ずつ番号を押して棚へ上げていく。
格納庫へ入れれば、鼠も火事も避けられる。だが中では品の時間まで止まり、二十五日後に出しても、白鹸は切った日の柔らかさのままだ。格納庫は荷を守るが、育てない。だから熟成棚だけは、村に要る。
最後の五番釜が熟成を終えるのは、七十七日目。許可の期限まで、まだ十日ある。
一番釜だけなら四日前に出せる。だが五釜を一度に比べて検査へ出せば、燃料四十五APと往復の旅費は一回で済む。四日を買うより、一往復を減らす方が安かった。
◇
白鹸が棚で待つ間に、|火酒《ひざけ》も仕込んだ。
灰汁の比重計で、酒の強さは測れない。似た形でも、浮くための目盛りが違う。火酒には、火酒だけの物差しを買った。
【耐薬品温度計・一本:-5AP】
【酒精計:-10AP】
【酒精計用透明測定筒:-5AP】
【追加購入計:-20AP】【現在残高:33,725AP】
【小型銅製蒸留器:-200AP】【現在残高:33,525AP】
【麦酒一樽・約五十リットル:-200AP】【現在残高:33,325AP】
村の麦は、冬を越すための食い物だ。酒へ変える原料は、俺の事業資金で用意する。
蒸留器は風の抜ける村外れの物置小屋へ置き、火の見張りを付けた。水桶、砂桶、火を覆う蓋を外に置き、受け瓶は火元から離す。酒精計、測定筒、二本目の温度計には青い布を巻いた。鍵はトメ婆が持つ。
一度目は粗く取り、二度目は最初に落ちる分を捨てる。真ん中だけを集め、弱くなったところで止めた。検めは小屋の外で小皿に一匙。瓶へ栓をして離れてから火を寄せると、青白い炎が灯った。
火が点くのは、明らかに薄い失敗を弾くための粗い印にすぎない。次に、少量を青い測定筒へ取り、温度計の線まで冷ましてから酒精計を浮かべた。目盛りは七十度を少し越えた。仕込み番号の横へ、温度と一緒に記録する。
酒精計は、同じ強さを次も作るための物差しだ。それだけで傷を防げると証明する道具ではない。今ある石鹸洗浄と煮沸を減らさず、施療院の管理下で試す品とした。
傷へ注ぐ酒ではない。手と、熱を掛けられない器具は、石鹸と湯で洗った後に火酒を使う。煮られる金属器具は煮て、そのまま乾かす。
空瓶二本だけでは足りない。未開封の蒸留酒二本を小樽へ移し、合計四本を揃えた。取れた火酒を詰め、仕込み番号と「火の試し済み」の木札を付ける。
大瓶へ詰めた残りは、煮沸した栓付き小瓶へ三百ミリリットルだけ分けた。売り物ではない。同じ番号を付け、酒精計の値を移し直すための標準酒として施錠小屋へ残す。
蒸留器の番人にはガルムが立候補し、トメ婆が即座に却下した。
「あんたが番なら、薬が酒に化けるだろ」
「儂の五十年の目利きが、こうも信用されんとはの」
「酒を見る目だけは、信用しすぎてるんだよ」
◇
《転生およそ50日目・夜》
白鹸の五番釜を枠へ流し終えた夜、俺はアルマを呼んだ。
「病気を調べたい。若い女。発作的に指が強張る。呼吸が浅くなる。短い時間で戻る。ひと月ほどで、三度見た」
『情報が不足しています』
返答は早かった。
『地球医学でも、複数の原因が候補に残ります。問診、診察、発作の長さと頻度、痛み、意識の変化、家族歴が必要です』
「薬の候補は」
『病名のない処方は販売できません。誤った治療は、治療しないことより危険です』
値札が高いのではない。棚へ辿り着くための情報がない。
城下の施療院は、火酒の試験先だった。今は、もう一つ役目が増えた。この世界の病を、診てきた人間の帳面へ近づく入口だ。
俺は野帳の一行を書き直す。
〈売り先候補・施療院〉
その下に、もう一行。
〈調べる先・施療院〉
病には、まだ番号を付けられない。
だが竈部屋の棚では、二釜目から生まれた白い塊に、〈一〉の木印が沈んでいる。
最初の一釜は売れない。
だから、二釜目を一番と呼ぶ。
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【第15話 収支(AP)】
期首 33,920
収入 ±0
支出 -595
帰路の燃料九十リットル -45
機械式卓上秤 -10
校正用分銅・五キロ -5
耐薬品温度計・二本 -10
灰汁用比重計 -10
灰汁用透明測定筒 -5
酒精計 -10
酒精計用透明測定筒 -5
目盛り付き耐薬品容器・二個 -10
強アルカリ域試験紙・百枚 -5
密閉型飛沫防護眼鏡・八個 -16
耐アルカリ長手袋・八双 -32
耐薬品前掛け・八枚 -32
小型銅製蒸留器 -200
麦酒一樽 -200
期末 33,325
累計 95,245/システムLv3
【現地通貨】
◆リヒト村
共有金 金貨25枚
初荷売上 銀貨12枚
本話の材料代受取 銀貨2枚
◆村の女衆六人
初回の手間賃 一人銀貨1枚、合計銀貨6枚
◆拓真個人の事業資金
格納庫 金貨4枚
組合供託 金貨20枚
自由現金 銅貨15枚
※材料代と手間賃は、白鹸が売れる前に拓真が自分の金から支払いました。最初の釜が失敗しても返還されず、損失は拓真が負います。
※現地貨幣・手押し車・仕入品も格納庫へ収納可能です。APへ変わったり、複製されたりはせず、同じ現物として戻ります。

