《転生およそ96日目》
ガルムの大剣が|閂《かんぬき》を断つより先に、戸の向こうの咳が一つ止まった。
「たいちょう。ひとり、いき、よわい」
「ガルム、待て。戸は指二本ぶんだけだ」
「分かっとる」
大剣の切っ先が、閂脇の板を縦に裂いた。
若い衛兵が長い棒を差し込み、折れた閂を押す。戸がわずかに浮いた瞬間、隙間の上から黒い煙が溢れ、下では|藁《わら》屑が中へ吸われた。
熱気に衛兵が顔を背けた。棒の先が黒く焦げる。衛兵とガルムが棒を引き、すぐに戸を戻す。
「中へ入るな!」
市場役の声が路地を通った。
「西の露店を畳め。見物人は城壁から離せ。|火番《ひばん》は砂と鉄板を持ってこい。水|桶《おけ》は二列だ。赤い札は延焼、白い札は人を洗う水にする!」
命令を聞いた者が、それぞれ別の方向へ走った。
逃げた男の背中は、もう見えない。
「にし。はしってる。まだ、きこえる」
ミアが西の路地へ耳を向けた。
「その耳があれば、まだ追いつける」
若い衛兵が言った。
「いまなら、まだ」
だが、ミアは耳をすぐに板戸へ戻した。
「なか、ふたり、せき。ひとり、いき、ちいさい」
西へ行かせれば、ミアならまだ追えるかもしれない。
中の一人は、次の咳をしていなかった。
「中の三人を取る。西門への人相は衛兵へ任せる」
「うん」
ミアは路地へ背を向けた。
追える時間が、一つ消えた。
白く濁った液は、戸の下からまだ流れている。見ただけで|灰汁《あく》だと決めることはできない。だが、手袋なしで踏んでよい物でもなかった。
市場の井戸から水が届くまで待てない。
【飲料水二十リットル携行缶×2:-40AP】
【現在残高:32,220AP】
二つの水缶が、俺の足元へ現れた。
「この水は人に使う。火へ運ぶな」
市場役が白い札を一枚、缶の取っ手へ結んだ。
「聞いたな! 白札は人だ。勝手に火へ回すな!」
火番が三人、乾いた砂の箱と、長い|鉤《かぎ》、鉄板を担いで駆けてきた。先頭の男は戸の隙間から出る煙を一度見て、屋根ではなく城壁側の板壁へ回る。
「脂の火は南の|竈《かまど》だ。人の咳は?」
ミアが壁際を移動した。煙が流れる側へ入る前に、市場役が肩を掴んで風上へ戻す。
「ここから聞け」
「……ひとり、ここ。ふたり、むこう」
ミアの指は、板壁の低いところで止まった。
火番の男が板へ耳を当てる。返事はない。
「柱は切るな。この二枚だけ剥がす」
鉤が板の合わせ目へ食い込んだ。
俺とガルムは、|飛沫《しぶき》防護眼鏡、耐アルカリ長手袋、耐薬品前掛けの留め紐をもう一度確かめる。熱と煙を防ぐ装備ではない。板の外から腕が届くところまでしか行けない。
火番二人が鉤を引き、ガルムが板の端だけを大剣で割る。
一枚目が外れた。
穴の上端から煙が溢れ、下端の砂が小屋へ吸われる。その奥で、誰かの指が動いた。
「一人いる!」
若い衛兵が腹|這《ば》いになり、布帯を投げ入れた。
「腕へ通せ! 這えるなら、こっちへ来い!」
黒い袖の男が、片腕だけを穴から出した。俺と衛兵で手首と帯を掴む。男の腰が板へ引っ掛かり、ガルムが穴を一枚ぶん広げた。
男が外へ転がり出る。
「奥に……まだ、二人」
「話すな。風上へ運べ」
火番の一人が男を抱え、市場役の白札が立つ場所へ運んだ。
外套に白い液は付いていない。咳は続いているが、自分で息をしている。
板戸の側で鉄板が鳴った。
別の火番が長鉤で燃える脂桶の蓋を引き寄せ、衛兵が砂を投げている。炎が一度低くなり、また板壁を舐めた。
「戸口に、もう一人来る!」
ミアの声に振り返る。
板戸の隙間から、女が両肘で床を這ってきた。右の袖と前掛けが白く濡れ、手の甲が赤い。
若い衛兵が棒へ布帯を結び、隙間から差し入れた。
「帯を掴め!」
女の指が一度滑り、二度目で布へ絡んだ。
戸を肩幅だけ開く。衛兵二人が帯を引き、俺は外へ出た腕を掴んだ。女の濡れた前掛けが戸口へ擦れる。
白い液が、俺の長手袋へ跳ねた。
「閉めろ!」
女の脚が出たところで、戸を戻す。
俺は女を抱えず、乾いた布を身体の下へ通した。濡れた服をこちらの前掛けへ押し付けないよう、四人で持ち上げる。
「白札へ。服を切って外せ。擦るな。水を止めるな」
「目が、痛い……」
「目からだ。水を流し続けろ」
水缶の栓が開いた。
市場の女衆が|衝立《ついたて》代わりの布を張る。薬師見習いが濡れた袖を刃物で切り開き、別の者が上下の|瞼《まぶた》をそっと持ち上げて、細く水を流し続けた。
「残り一人!」
俺が板壁へ戻ると、ミアは最初に外した穴から動いていた。
「たいちょう。ここじゃない。みぎ、ふたつ。した」
咳は聞こえない。
板越しに、硬い物を叩く音が一度だけした。
火番の頭が壁の柱を確かめ、二枚先へ白い線を引く。
「棚が倒れた音だ。柱の間を開ける。屋根が落ちたら、全員退け」
鉤が板を引く。
釘が|軋《きし》み、一本が外へ飛んだ。ガルムの前掛けを|掠《かす》める。長手袋の表に筋が付いたが、破れてはいない。
「旦那。板は|儂《わし》が持つ。腕を取れ」
二枚目の穴から、倒れた棚の脚が見えた。
その下に、男の背中がある。
ガルムと火番が鉤を棚へ掛ける。俺は床へ膝をつき、穴から両腕を伸ばした。男の襟は熱く、|煤《すす》と白い粉が混じっている。
「上げろ!」
棚が指一本ぶん浮く。
男の肩へ布帯を通し、脇の下まで送った。
「引け!」
四人で帯を引く。
男の腰が棚の横木に止まった。ガルムの大剣が横木を一度叩き割る。もう一度引くと、男の身体が床を滑った。
穴から頭が出る。
呼吸はある。だが、呼び掛けには答えない。
火番の頭が笛を吹いた。
「全員、壁から離れろ!」
男を布ごと引きずり、城壁側へ退く。
直後、竈側の屋根が内側へ落ちた。
黒い煙と火の粉が、開けた二つの穴から噴き出す。火番が乾いた砂を竈側へ投げ、鉄板を長鉤で押し込んだ。
三人目は、こちら側にいた。
逃げた一人の足音は、もうミアにも聞こえなかった。
西へ走った衛兵が戻ってきた。
「荷車溜まりで見失った。西門へは届いていない。外市の小路へ抜けられた」
ミアは何も言わず、煤の付いた男の胸を見た。
◇
風上の路地には、白札を挟んで二つの場所が作られていた。
小屋から出た者を洗う場所と、洗い終えた者を薬師へ渡す場所だ。
一人目の男は、壁にもたれて咳をしている。二人目の女は濡れた上着を外され、肩から毛布を掛けられていた。水は右腕と手、目へ流れ続けている。
三人目の服には、白い粉と煤が付いていた。
粉の付いた上着は揺らさず切り外す。濡れた襟も肌から離し、男を横向きにして胸の動きを見る。
「アルマ。息は」
【生命反応を確認しました】
浅いが、胸は動いている。
俺の水缶二つが空になっても、洗浄は終わらなかった。市場の井戸から白札の桶が届き続ける。
水は一度で終わらせず、痛みと赤みが残るところへ流し続けた。
市場役は、濁った水が人の足元へ戻らないよう、砂と土で細い溝を切らせた。使った布と衣服は一か所へ集め、誰の物かを書いた札を付ける。
火へ使う赤札の桶は、最後まで別の列を通った。
|施療《せりょう》院から来た薬師が三人を診た。
「歩ける一人は、煙の来ない風上で休ませる。女は目と腕を洗ったまま運ぶ。寝ている男は先に担架だ。煙を吸った者は、今夜は帰すな」
市場役が三人の腰札を門帳の写しと照合し、それぞれの名に丸を付けた。
「三人とも城内戸のある日雇いだ。施療院へ運べ」
市場の担ぎ手が、三人を二台の手車と一床の|担架《たんか》へ分けた。
俺とガルムは最後に互いの前掛けと手袋を水で流す。飛沫防護眼鏡の縁、紐の裏、長手袋の折り返しまで、上から下へ洗った。
ミアの一組は白い流れへ触れていない。釘筋のあるガルムの一組には点検札を付ける。俺の一組は外面を洗い、火が消えるまで風へ吊るした。
「手は」
「無事じゃ。釘が撫でただけじゃの」
ガルムが、釘の擦った筋を指でなぞった。
「破れとらん」
「決めるのは、洗って乾かしてからだ」
「旦那は道具にまで医者を付ける気か」
「穴が開いてからじゃ遅い」
ガルムは何も言わず、点検袋へ手袋を戻した。
◇
火が消えるころ、小会議室から領家印の捜索・保全書が届いた。衛兵の上役が読み上げ、救助のための戸破りと、これからの証拠捜しを分けて記録する。
領家印を確認したあと、小屋へ入ったのは衛兵と市場役だった。
救助のために外した板、切った閂、動かした棚、砂を掛けた竈。市場の書記は、誰が何のために動かしたかを|蝋板《ろうばん》へ刻む。
完全な形で残った物は少ない。
焦げた加工台。灰褐色の芯。白い練り物が固まった木桶。半分だけ白く塗られた石鹸。
衛兵が一つずつ証拠札を付け、領家印で封じる。市場役は、その脇へ場所札の割り印を置いた。
白く濁った流出液は、火の消えた場所から離れた溝の端で少量だけ採った。乾いた俺の防護具に裂けと変色がないことを確かめて着け直し、市場役の立会いで試験紙を一枚浸す。
色は、強いアルカリ側へ変わった。
紙が示したのは、流れた液が強い灰汁の性質を持つことだけだ。出火の順も、桶を倒した手も、色には出ない。
試験紙と採取瓶にも、別の札が付いた。防護具はもう一度洗い、乾かす袋へ戻す。
◇
夕刻、三人は施療院にいた。
最初に出た男は、湯と薄い|粥《かゆ》を少しずつ取り、寝台で上体を起こしている。女の右腕には清潔な布が当てられ、目は覆わず、灯りを避けた寝台で薬師が見ていた。
市場役が、セルマの許した四つの問いを蝋板へ並べた。
「逃げた男の名は」
「知りません。鍵を開けて、日当を置く人です。茶色いのへ白い物を塗れと言われました」
「白い物は、誰が作った」
「あの人が桶で持ってきました。中身は聞いていません」
「火が出た時は」
「あの人が西の小戸へ走った。棚が倒れて、灯りも落ちた。わざとかは、見ていません」
四つ目を|訊《き》く前に、男が咳き込んだ。セルマが手を上げ、市場役は蝋板を閉じる。
三人目の男は、呼吸が落ち着くまで横向きに寝かされていた。目を開くと、セルマの問いに自分の名を答えた。女と男の前には、水差しも食事の器も置かれていない。セルマがまだ許していなかった。
三人とも今夜の寝床が決まり、施療院の帳面へ観察の時刻が刻まれた。
そこで画面が開く。
【人命救助(平時)×3:+300AP】
【現在残高:32,520AP】
火から出した時ではない。
洗う水と、診る者と、今夜を越す場所が揃った分だった。
三人目の男が、毛布の上で両手を握った。
「〈六〉を押したのは、俺です」
セルマが水差しを置く。
「今、その話を取る者はここにいないよ」
「でも、あんたたちは、それを調べに」
「衛兵へ話せ。今は息をしろ」
俺が言うと、男は目を閉じた。
画面は、誰が木印を押したかを訊かなかった。
三人を、三人と数えただけだった。
◇
組合の帳場へ戻ると、領家印の小袋が一つ増えていた。
呼吸が落ち着いてから男が衛兵へ示した棚の炭から、端に〈六〉を彫った木印が見つかったという。
バルツァーと市場役は、その小袋と二枚の割り木を並べた。
「番号を押した品と、帳面に載った品を、客には見分けられん」
バルツァーが〈六〉の写しを裏返す。
「帳面は六を弾けた。客の目には、番号しかなかった。それが最初の穴じゃ」
「停止が解ける前に売る品は、全部非正規だと触れへ足す」
「販売を再開する前に、穴を一つ塞ぐ」
俺は長い木札を、二か所で割った。
片端は組合帳へ。中央は、組合が公示する固定の店へ。残る端は、釜番号を刻んで籠へ結ぶ。
店の札と籠の札は、客の前で割れ目を合わせる。組合は、店札のもう一方を帳面側と照合する。
「木札も真似されるぞ」
市場役が言う。
「できる。だから、これで安全だとは書かない。番号一つより、偽物を作る手間が増えるだけだ」
「販売停止は」
「解かない。残りの品と売り手を確かめる方が先だ」
バルツァーが三つの札を元の形へ戻し、二つの割れ目を確かめた。
「最低限の札じゃな」
「最低限でいい。次に破られたら、また一つ増やす」
組合書記が、試験販売の追記欄へ再開時の規則案を刻み始めた。籠へ結んだ札は、空の見本籠から動かさない。
その横へ、別の書付が置かれる。
「若いの。|道路方《どうろかた》からじゃ」
第八十二日目、東街道の路肩へ残した二本の|轍《わだち》。補修前に測った査定原簿が道路方にあるため、運転者は出頭せよという通知だった。
測った数字は、ここにはない。原簿を見て、写しを持ち帰るなら代金が要る。
鉄の馬車を見たのは、人だけではなかった。
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【第21話 収支(AP)】
期首 32,260
収入 +300
人命救助(平時) 三人 +300
支出 -40
飲料水二十リットル携行缶 二本 -40
期末 32,520
累計 96,105/システムLv3

