第1話
「マルタ様!殿下がお目覚めになりました!」
甲高い女の声が耳のすぐ横で弾け、そのまま遠ざかっていった。
廊下を走る足音。誰かを呼ぶ声。報せが、建物の奥へ転がっていく。
……ん。俺は、いったいどうしたんだ。
視界いっぱいに天井が広がる。
白い漆喰。縁には、鷹を模した細かい彫り込み。
見覚えがない。
殿下、と聞こえた気がする。
でんか。殿下。
誰の話だ?
足音が戻ってくる。
扉がぶつかる音。息が切れている。
「レオン!レオン!」
誰かが叫んだ。
名前を呼ばれたのだと思う。心配と、押し殺しそこねた震えが、まるごと乗った声だった。
顔が視界に落ちてくる。
誰だ……?
知らない女性だ。乱れた髪が汗で頬に貼りついている。目が真っ赤に腫れていた。
その泣きそうな顔を見た瞬間、胸の奥が、ぐ、と掴まれた。
「お母様」
俺の口が、勝手に動いた。
いま、俺はなんて言った?
お母様?
「急に倒れて、3日も目を覚まさなかったのですよ!どれほど心配したと……」
女性の両手が、俺の手を包んだ。
小さい。
俺の手が、女性の手の中へすっぽり収まっている。指も、手のひらも、手首も。大人の手のひらひとつに、まるごと入ってしまっている。
こんな小さい手ではなかったはずだ。
こんな、
——こんな、なんだ?
白い漆喰の天井が、ぐにゃりと歪んだ。
白い。
白い、
蛍光灯。
鳴り続ける電話。
机を埋め尽くした配送表。
冷え切った缶コーヒー。
誰かが呼んでいる。
「高城さん」
高城さん
たかしろさん。
……ああ。
俺のことだ。
高城拓真。三十五歳。物流会社の配車係。
配送表を睨んでいた。目の奥が熱かった。
そこから先が、ない。
息を吸おうとして、失敗した。
「レオン! 私を見て!」
女性の両手が、俺の頬を挟んだ。
「吸おうとしなくていいのです!まず、吐いて!ゆっくりと。」
言われたとおりに、喉の奥に詰まった息を吐く。
「そう。もう1度」
その声を、身体が知っていた。
熱を出して眠れなかった夜も。雷に怯えて泣いた夜も。この人は同じ声で、何度も俺を落ち着かせてくれた。
記憶が、一つずつほどけていく。
マルタ・アルディア。
国王の側妃。そして、レオンの母親。
俺の母親だ。
「お母様」
今度は、俺が自分の意志で呼んだ。
「ええ、ここにおります」
マルタが俺を抱きしめる。
高城拓真として生きた三十五年がある。
同時に、レオン・アルディアとして母と過ごした八年も、確かに俺の中にあった。
どちらかが偽物なのではない。
どちらも、俺だ。
その瞬間、マルタの肩越しに青白い文字が浮かんだ。
【前世記憶との統合を確認】
【適合者:レオン・アルディア】
【APシステムを起動します】
なんだ、これは?
俺は、暫くその文字を眺めていた。
「レオン、どうしたの?何を見ているのです?」
「お母様には、あの文字がみえない?」
マルタが振り返る。
けれど、青白い文字は彼女の顔を透かしたまま、そこに浮かんでいた。
「何もみえないわ。レオンには、何が見てるの?」
マルタの手が、もう一度俺の額へ触れた。
「青白い文字。僕の名前と、APシステムって書いてる」
「えーぴー……?」
マルタは聞き返したあとも、俺の額から手を離さなかった。ただ、俺の目をじっと見ている。
「その文字は、あなたに何かを命じているの?」
「ううん。『起動します』ってかいてあるだけ。」
「痛みは?」
「今はない」
「消すことはできる?」
考えてもいなかった。
俺は青白い文字へ意識を向けた。
消えろ。
そう念じると、文字が音もなく消えた。
「あ……消えた」
「もう1度、出せる?」
開け。
青白い文字が、先ほどと同じ場所に現れた。
【初回案内を開始します】
【操作方法:思考入力】
【保有AP:1,000】
【利用可能機能:物資調達/契約要員】
「千AP。物を取り寄せる機能と、人を呼ぶ機能があるみたい」
「取り寄せる?」
物資調達、と考える。
文字が左右へ開き、その奥に無数の品物が並んだ。
袋に詰められた米。透明な容器に入った水。毛布。石鹸。薬。
工具。発電機。自動車。
そして、拳銃や小銃。
どれも見覚えがあった。
この世界ではなく、高城拓真として生きた世界で見た物だ。
「レオン?」
マルタの声で、画面から目を離した。
「今度は、何が見えているの?」
「米と、水。毛布、石鹸、薬……ほかにも、工具や乗り物、それに武器が並んでる」
「あなたは、それが何か分かるの?」
「……うん」
口にしてから、迷った。
高城拓真として生きた三十五年の経験は、分からない力のことを簡単に他人へ話すなと告げていた。
けれど、レオンとして過ごした八年は知っている。
この人は、雷に怯えて泣いた俺を、一晩中抱いていてくれた。
どちらも俺の記憶から出た判断だった。
「お母様。驚かないで聞いて」
「ええ」
「僕には、もう一人分の人生がある」
俺の手を包んでいた指が、わずかに強くなる。
「もう一人分……?」
「高城拓真という人間として、三十五歳まで生きた記憶。さっき見えていた品物も、その世界にあったものなんだ」
マルタは何も言わなかった。
俺の顔を見つめたまま、唇を固く結んでいる。
「あなたは……レオンなの?」
「うん。僕はレオンだ」
それだけは、迷わず答えられた。
「雷が鳴る夜は、いつもお母様の左側で寝た。そっちのほうが、窓から遠かったから」
マルタの目が見開かれた。
「それを知っているのは、私とあなたしかいません」
「母上が眠ったあとも、僕は服の袖をずっと掴んでた」
「ええ。朝になると、いつもしわだらけでした」
マルタの指が、俺の頬を撫でた。
「僕はレオンだよ。でも、高城拓真だった記憶も、確かに僕の中にある。どうしてなのかは分からない」
「……私にも、すぐには理解できません」
マルタは俺の手を握り直した。
「けれど、あなたが私の息子であることは分かります。分からないことは、これから一緒に調べましょう」
「信じてくれるの?」
「あなたを信じます。ただし、この話は私以外にしてはなりません」
声から、母親の柔らかさが消えた。
そこにいたのは、王宮で生きてきた国王の側妃だった。
「王宮では、珍しい力を持つ子供は、祝福されるより先に利用されます。APという文字のことも、誰にも話してはなりません」
「分かった」
返事をすると、青白い画面に新しい文字が浮かんだ。
【初回特典:契約要員一名】
「……お母様」
「今度は何が出たの?」
「一人、呼べるみたいだ」
「一人を?」
マルタの眉が寄った。
「その方も、先ほどの品物と同じように取り寄せるのですか」
「待って。説明を見てみる」
契約要員、と念じた。
【契約要員は配備時に、固有の人格・肉体・専門技能を備えて生成されます】
【生成後は独立した人格を持ち、契約者を裏切らず、命令を原則として遂行します】
【食料・水・休息その他の給養は、契約者の責任です】
【死亡または契約解除時に消滅し、再生成できません】
「違う。誰かを呼ぶんじゃない」
まだ、どこにもいない一人。
俺が選べば、その人の人生が始まる。
「この力が、これから一人の人間を作るんだ」
「なら、生み出したあとで、品物のように扱ってはなりません」
「うん」
表示が切り替わった。
【生成する契約要員の規格を選択してください】
【護衛歩兵/戦闘救護員/指揮支援要員】
【護衛歩兵:近接警護・施設防衛を専門とします】
【戦闘救護員:戦闘および負傷者の応急処置を専門とします】
【指揮支援要員:警護・情報整理・記録・兵站補助を専門とします】
護衛歩兵なら、俺とお母様を守れる。
戦闘救護員なら、誰かが怪我をしたときに助けられる。
どちらも必要だと思う。
けれど、俺はこの城で何が起きているのかさえ、まだ分かっていない。
誰が味方で、誰を警戒すべきなのか。
この国にどれだけの兵士がいて、食料がどれだけあり、俺に何ができるのか。
戦う前に、知らなければならないことが多すぎる。
「指揮支援要員にする」
「それが、いちばん強い方なの?」
「たぶん違う」
マルタがわずかに目を見開いた。
「でも僕はいま、何と戦えばいいのかも分からない。だから、強い人より、一緒に考えてくれる人が欲しい」
高城拓真だった頃も、そうだった。
運転手が足りないからといって、ただ一人増やせば荷物が届くわけではない。
行き先と荷物と時間を把握し、誰をどこへ向かわせるのか決める人間が必要だった。
「分かりました」
マルタはうなずくと、開いたままの扉へ向かった。
「ここで生み出すのなら、誰にも見られないようにしましょう」
廊下を確かめ、外にいた者へ声をかける。
「医師が来るまで、誰も部屋へ入れてはなりません」
そう命じて扉を閉め、内側から鍵をかけた。
「これでいいわ。始めなさい」
「怖くないの?」
「怖いですよ」
マルタは俺のそばへ戻ると、肩に手を置いた。
「だから、あなたを一人にはできません」
俺は息を整え、青白い文字へ意識を向けた。
指揮支援要員を選択。
【指揮支援要員を生成します】
【初回特典適用:消費AP 0】
【配備地点を指定してください】
寝台と窓から離れた、壁際の空間を見る。
ここだ。
【配備地点を確認】
【生成を開始します】
何もなかった空間に、青白い光の線が走った。
最初に形を得たのは、床を踏む黒い軍靴だった。
脚、胴体、腕。
光が人の輪郭を描き、その内側へ色と重さが満ちていく。
数秒もかからなかった。
光が消えた場所に、一人の女性が立っていた。

灰緑色の服。身体を覆う防具。背には大きな荷物を負い、胸元には黒い小銃が吊られている。
茶色い髪は、邪魔にならないよう後ろで束ねられていた。
女性は最初に、大きく息を吸った。
生まれて初めて空気を吸うような、深い一呼吸だった。
次の瞬間には、部屋の扉、窓、マルタ、そして俺へと視線を走らせる。
小銃の先は床へ向けたまま、右手の指は引き金に触れていない。
それでもマルタは、俺を隠すように半歩前へ出た。
女性はその動きを見て、すぐに小銃から手を離した。
青白い文字が、彼女の横に浮かぶ。
【契約要員の生成が完了しました】
【氏名:エレナ・グレイ】
【職種:指揮支援要員】
エレナは自分の両手を一度だけ見た。
それから背筋を伸ばし、俺へ向き直る。
「指揮支援要員、エレナ・グレイ。ただいま配備されました」
彼女の視線が、八歳の俺の顔で一瞬止まる。
だが、驚きを表へ出すことなく、右手を額へ上げた。
「状況と任務を。指揮官」

