003話 魔法の訓練
マルタの胸元へ飛んだ矢が、青く透き通った盾にはじかれた。
盾の表面に、水へ石を落としたような波紋が広がる。
矢は石畳へ落ち、乾いた音を立てた。
「お母様!」
実演だとは分かっていた。
矢尻を外し、先端を厚い革で包んだ訓練矢だ。守備弓兵も、マルタが盾を張ったのを確認してから、弓を半ばまでしか引かずに放っている。
それでも、三十五歳の頭が大丈夫だと判断するより先に、八歳の身体が駆けだしていた。
青い盾が消えるのも待たず、俺はマルタの腰へしがみついた。

「大丈夫ですよ、レオン」
マルタの手が、俺の頭を撫でる。
「分かってる。でも、怖いものは怖いよ」
「そうね。少し刺激が強すぎたかもしれません」
マルタは俺の肩へ手を置き、石畳に落ちた矢を見た。
「できれば、この魔法が必要になる日など、来ないほうがよいのです」
その声が、少しだけ低くなる。
「ですが、必要になったときに使えなければ、守りたい人を守れません」
俺が目を覚ました翌朝のことだった。
昨夜は侍医の言いつけどおり、魔法を使わずに眠った。
今朝の再診で、ようやく「ごく少量に限って」という条件付きで、魔法を使う許可が出た。
領主館二階の私室から、私階段を下り、内郭の中庭を横切って二、三分。
俺たちは、術式工房の裏手に設けられた試験庭へ来ていた。
術式工房は、魔道具の修理や刻印の調整を行うための石造りの建物だ。完成した術式を安全に試すため、その裏手には高い石壁に囲まれた庭が設けられている。
地面の大半は石敷きだが、一部だけ砂地になっている。射線の先には窓ひとつない分厚い石壁があり、その手前には矢止めの藁束が積まれていた。
エレナが質問した。
「今の盾は、術者とともに移動できるのですか?」
「ええ。術者の正面に置いたまま動かせます」
「側面と背後は?」
「守れません。それに、集中が途切れれば消えてしまいます」
「承知しました」
魔法を初めて見たばかりなのに、驚くより先に、その使い方と弱点を確かめている。
やはり、エレナは護衛なのだ。
マルタは守備弓兵へ顔を向けた。
「実演はこれで十分です。訓練矢を回収して、試験庭の外で待機なさい」
「はっ」
守備弓兵は石畳に落ちた矢を拾い、俺たちへ一礼した。
弓を携えて庭を出る。
重い扉が閉じ、試験庭に残ったのは、俺とマルタ、エレナの三人だけになった。
「では、レオン」
マルタが俺の肩から手を離し、正面にしゃがんだ。
「盾式結界の練習を、続きから始めましょうか」
「でも僕、前は何度やっても盾の形にできなかったよ」
「ええ。青い光を集めることまではできても、形を保てませんでした」
マルタの手が、俺の右手を包んだ。
「ですが、今のあなたは魔力の流れが以前とは変わっています。できるとも、できないとも決めつけず、まずは確かめてみましょう」
「うん」
「私が魔力の流れを導きます。今日は無理をせず、まず盾の輪郭を作るところまでです」
マルタは俺の右手を取り、掌を正面に向けた。
「胸の奥にある魔力を感じてください。そこから右肩へ、腕へ、最後に掌へ流します」
その手順は、レオンの記憶にも残っていた。
これまでにも、同じ練習を何度も繰り返している。
だが、胸の奥にある魔力を動かそうとしても、どこを通っているのかまでは分からなかった。ただ温かな何かが身体の中を動き、掌へ届く前に散ってしまう。
「焦らなくてよいのです。私の魔力を追ってください」
マルタの手から、細い魔力が流れ込んでくる。
胸から肩へ。
肩から腕へ。
腕から、手首を通って掌へ。
今まで一つの塊にしか感じられなかった魔力の流れが、一本の細い線として、はっきりと分かった。
「……見える」
「目で見るのではありません。感じた流れを、そのまま外へ出してください」
言われたとおりに、掌へ魔力を送る。
青い光が、指先の前へ集まった。
以前なら、ここで形を作れないまま消えていた。
だが今回は、青い光から細い線が伸びた。
盾の上端を描き、左右へ分かれ、下端の一点へ向かっていく。
「そのままです、レオン」
マルタの声に背中を押され、さらに意識を集中させる。
左右から伸びた線が、盾の下端でつながった。
一瞬だけ、輪郭の内側に青く透き通った膜が張る。
「でき――」
右側の縁が大きく揺れた。
次の瞬間、盾は青い光の粒となって霧散した。
「あ……」
できたと思ったのに。
「レオン。いま、どこから崩れたか分かりますか?」
マルタに尋ねられ、俺は自分の右手を見た。
「右側。魔力を左右へ分けたとき、右へ流したほうだけ細くなった」
「……そこまで分かったのですか?」
マルタの声に、わずかな驚きが混じった。
「うん。右側が細くなって、そこから全部崩れた」
以前なら、失敗したことしか分からなかった。
どうして形にならないのか。どこで魔力が散ったのか。何を直せばよいのか。
何度繰り返しても、それが分からなかった。
だが今は、失敗した場所と、そのときの感触が身体の中に残っている。
「では、次は右側だけへ力を足そうとしてはいけません」
マルタが俺の手を放した。
「左右へ分ける前に、流れを細く整えるのです。そのうえで、同じ量を両方へ送りなさい」
「今度は、お母様の魔力なしで?」
「ええ。先ほど感じた道を、自分でたどってみてください」
俺は、もう一度右手を上げた。
胸の奥から肩へ。
肩から腕へ。
腕から掌へ。
今度は、誰かに導かれなくても道が分かる。
掌の前へ出た青い光を、左右へ分ける。
急がない。
右側だけを直そうとせず、両方へ同じだけ流していく。
盾の輪郭が閉じた。
その内側へ、青く透き通った膜が広がる。
マルタの盾より二回りほど小さい。右上が少し歪み、表面もかすかに揺れている。
それでも、今度は消えなかった。
「……できた」
「ええ。できましたね」
マルタが、嬉しそうに目を細めた。
盾を保てたのは、ほんの数呼吸だけだった。
やがて縁から光が薄れ、青い粒となって消えていく。
魔力が増えたわけではない。
失敗しなくなったわけでもない。
けれど、どこで失敗したのかが分かる。
分かった間違いを、次の一回で直すことができる。
それが、整えられた魔力の通り道が俺にもたらしたものなのかもしれない。
「マルタ様」
少し離れた場所で見ていたエレナが口を開いた。
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう?」
「この盾式結界は、私も学ぶことができますか?」
マルタは少し驚いたあと、静かに微笑んだ。
「適性を確かめなければ、使えるかどうかは分かりません。それでも学びたいのですか?」
「はい。殿下を守るために役立つのであれば」
「では、レオンの訓練が終わったあとで、魔力を感じるところから始めましょう」
「ありがとうございます」
エレナは、深く頭を下げた。
彼女は生まれたときから、戦うための知識と技能を与えられていた。
けれど、盾式結界は違う。
これは、エレナがこの世界で初めて、自分の意志で学びたいと望んだものだ。
俺が初めて魔法の盾を作った日。
エレナもまた、初めて自分で学ぶものを選んだ。

