翌朝、王都へ向かう封書は、俺より先に灰門城の東門を出ていった。
刻印官のリディアから革の文書袋を受け取った公文便の騎手が、それを鞍の後ろへ固定する。
騎手は門兵へ右手を上げると、坂道を下っていった。
その姿が城下の屋根に隠れるのを見届けてから、俺たちは東門脇に待たせていた馬車へ向かった。
「じゃあ、僕たちも行こう。エレナは、馬車に乗るのも初めてだよね?」
「はい。本日が初めてです」
「結構揺れるけど、窓から町を見ると楽しいよ」
「承知しました。周囲の確認は怠りません」
「警護だけじゃなくて、景色を見てもいいって意味だよ」
エレナが、わずかに瞬きをした。
「……承知しました」
本来なら、仕立屋を城へ呼べば済む話だ。
それでもこちらから出向くことになったのは、今朝の診察で短時間の外出を許され、マルタが俺の回復した姿を城下の人々へ見せておくべきだと判断したからだった。
もう一つの目的は、エレナが人前へ出る際に身につける、公務用の上衣を誂えることだった。
いま羽織っている濃紺の外套は、城の衣装庫から借りたものにすぎない。灰緑色の軍服はそのまま残し、町や公の場へ出るときだけ、上着をこの土地の服へ着替えることになった。
エレナは馬車の扉を開けると、座席の下や反対側の扉まで確認した。
「異常ありません」
それを待って、マルタ、俺、侍女の順に乗り込む。
俺とマルタが奥の座席へ並んで腰を下ろし、向かい側に侍女が座った。最後に乗り込んだエレナは、俺に近い扉側の席を選ぶ。
守備兵が外から扉を閉め、御者台へ上がった。
「出してくれ」
その声を受け、御者が手綱を鳴らす。
馬車がゆっくりと動きだした。
最初の石畳の継ぎ目を越えた途端、座席が大きく跳ねた。
エレナの身体がわずかに浮き、すぐに片手で座席の端をつかむ。
「予想していたより揺れますね」
「これでも、城から市場までは石が敷かれているから、まだましだよ。土の道に出たら、もっと揺れるからね」
「承知しました」
エレナは真剣な顔でうなずいた。
前世の自動車と比べるまでもない。
馬車は道の凹凸を一つずつ拾い、律儀に腰全体へ伝えてくる。
馬車は城下へ続く坂道を、ゆっくりと下っていく。
灰門の城下には、およそ六百三十人が暮らしている。
領主館の紋章が付いた馬車に気づき、人々が道の端へ寄っていく。
籠を抱えた女性が頭を下げ、その隣では、母親に手を引かれた小さな男の子が俺を見つめていた。
俺が小窓から手を振ると、男の子も反射的に手を上げる。
すぐに母親がその手を下ろさせ、慌てて頭を下げさせた。
悪いことをさせてしまっただろうか。
俺がもう一度笑って手を振ると、今度は母親も困ったように笑った。
「皆、あなたが目を覚ましたことを喜んでいるのですよ」
隣に座るマルタが言った。
「僕は、まだ何もしていないのに?」
「無事でいることも、今のあなたにできる大切な務めです」
その言葉へ返事を考えているうちに、馬車の速度が落ちた。
「マルタ様」
御者台から、守備兵の声が届く。
「この先は週市の荷車が増えております。仕立屋までは、歩いたほうが早いかと」
「分かりました。ここで降りましょう」
馬車が広場手前の空地へ止まる。
守備兵が御者台から降り、周囲を確認してから扉を開けた。
最初にエレナが外へ出る。
左右の通り、建物の窓、屋根の上まで順番に見回したあと、俺へ手を差し出した。
「足元にお気をつけください」
「うん」
その手を借りて地面へ降りる。
続いてマルタと侍女も馬車を降りた。
守備兵が一行の数歩前へ立ち、御者は馬車とともにその場で待機する。
エレナは辺りを見回しながら、俺の半歩前を歩いていた。
仕立屋は、市場広場へ入る手前にあった。
店の前では、女主人らしい中年の女性が待っていた。俺たちに気づくと、すぐに深く頭を下げる。
「マルタ様、レオン殿下。お待ちしておりました」
「急なお願いを聞いてくださり、ありがとうございます」
「とんでもございません」
女主人の視線が、エレナの濃紺の外套から、その下にのぞく灰緑色の服、黒い軍靴へと動いた。
「そちらが、新しく殿下の護衛になられた方ですね?」
「エレナ・グレイです。よろしくお願いいたします」
エレナが頭を下げる。
「どうぞ、中へお入りください」
守備兵は入口の脇へ残り、俺たちは女主人に案内されて店内へ入った。
壁際には、色とりどりの布が巻かれた状態で並んでいる。細い飾り紐や金属製の留め具も、種類ごとに浅い木箱へ分けられていた。
「お願いしたいのは、エレナの公務用の上衣です」
マルタが女主人へ説明した。
「いま身につけている服は本人のものです。ただ、このまま町へ出れば、どうしても人目を引いてしまいます。護衛として動きやすく、灰門の者が見ても、その役目が分かるものを誂えてください」
「承知いたしました。ズボンと靴は、いまお召しのものを使われますか?」
「はい。どちらも任務に支障はありません」
エレナが即答した。
「では、上衣だけをこちらの仕立てに合わせましょう。まずは採寸から始めます。エレナ様、外套をお預かりしてもよろしいですか?」
「承知しました」
エレナは濃紺の外套を脱ぎ、侍女へ預けた。
女主人が布製の巻き尺を手に近づくと、エレナの背筋がまっすぐに伸びる。
「もう少し、肩の力を抜いていただけますか?」
「抜いております」
「エレナ。魔法の検査じゃないんだから、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「緊張しているつもりはありません」
どう見ても、力が入っている。
女主人は笑いをこらえながら、肩幅や腕の長さを順番に測っていった。
「現在のお召し物は、随分と動きやすそうですね」
「動作を妨げないことが最優先です」
「では、ズボンと靴はそのまま使い、上衣だけを仕立てましょう。濃紺の布で、丈は膝の少し上まで。前裾と背に切れ目を入れれば、走る際にも邪魔になりません」
「目立つ飾りは不要です」
「ですが、レオンの護衛であることが、一目で分かる印は必要です」
マルタが言葉を添える。
「左胸に灰門の紋章を。襟と袖、裾には細い銀灰色の縁取りを入れてください」
「承知いたしました」
「上衣の内側には、道具を入れる場所が必要です」
エレナが両手で、おおよその大きさを示した。
「走っても中身が動かないよう、留め具も付けてください」
「紐と金属、どちらになさいますか?」
「より壊れにくいものをお願いします」
布の厚さ、袖の広さ、ポケットの位置。
機能に関することなら、エレナは一度も迷わなかった。
「最後に、上衣の裏地をお選びください」
女主人が三枚の布を机へ並べた。
落ち着いた灰色。
表地より少し明るい青。
そして、深みのある暗い赤。
「耐久性に違いはありますか?」
「どれも同じ布です。色だけのお好みになります」
エレナの返事が止まった。
「任務に適した色は?」
「外からはほとんど見えません。エレナ様のお好きな色でよろしいかと」
エレナの視線が、三枚の布の間を行き来する。
「急がなくていいよ。エレナが好きだと思ったものを選べばいいから」
「私が、好きだと思ったものを」
「うん」
エレナはもう一度、三枚の布を見比べた。
やがて、その指先が暗い赤の布へ触れる。
「これにします」
「赤でよろしいのですね?」
「はい」
エレナが、この世界で初めて、自分の好みだけで選んだものだった。
「よく似合うと思うよ」
「ありがとうございます、殿下」
その返事はいつもどおりだった。
けれど、赤い布から指を離すまで、ほんの少し時間がかかった。

採寸を終えると、女主人は三枚の布を丁寧に重ねた。
「仕立て上がりましたら、城へお届けいたします」
「よろしくお願いします」
俺たちは女主人に見送られ、仕立屋を出た。
市場広場からは、売り手の声や荷車の音が絶え間なく聞こえてくる。店の前で待っていた守備兵が一行の先頭へ戻り、俺たちは来た道を馬車へ向かった。
帰りの馬車でも、エレナは俺に近い扉側へ座った。
馬車が動き始めると、窓の外へ視線を向ける。行き交う人々の手元、路地の奥、建物の窓。見ている場所は、行きとほとんど変わらない。
「帰りも、警護で忙しそうだね」
「往路で注意すべき場所を把握できましたので、先ほどより余裕があります」
「それなら、少しくらい景色も見られる?」
「はい」
エレナはそう答えたものの、すぐには窓の外へ顔を向けなかった。
「町は、どうだった?」
「道幅に対して、人と荷車の往来が多いと感じました。広場では、複数の方向から接近される可能性があります」
「警護以外の感想は?」
エレナの返事が止まる。
窓の外では、色の異なる布を張った露店が、ゆっくりと後ろへ流れていた。
「城の中よりも、たくさんの色がありました」
「気に入った色もあった?」
「はい」
「赤色です」
仕立て上がれば、その色は上衣の内側へ縫い込まれる。
外からは、ほとんど見えないだろう。
護衛としての役目を示すものでもなければ、任務に必要なものでもない。
それでも、エレナの上衣には、彼女が自分で選んだ色が残る。
それだけのことが、俺にはとても大切なことに思えた。

